プレセパレート/村田侑衣
10分で読める恋愛小説
「ねえ。私のどこに魅力を感じる?」
艶のある吐息に乗って届いた言葉が左耳を擽る。微かに漂うアルコールの甘い香り。重い瞼を開いた僕は、キングサイズのベッドに投げ出した体をゆっくりと左に向けた。
「全部だよ。顔もスタイルも性格も」
模範解答を反射的に答えた唇は、そのまま沙織の唇へと吸い寄せられていった。
「ありがとうって言いたいところだけど、そういう嘘は嫌い」
どうやら不正解だったらしい。触れる直前に返ってきたその答えを聞いて一瞬だけ動きを止めたが、次の言葉が出てくる前にひとまず唇を塞ぐことにした。
軽く柔らかな刺激。「嘘じゃないよ?」僅かに作った隙間から言葉を漏らして再び触れる。「でも、強いて言えば性格かな」
目を合わせたまま同じ動作を五回繰り返したところで沙織の唇が僕の上唇を挟んだ。特に取り決めたわけでもない無言の合図を受けた僕は、頬に添えていた右手を足の方に滑らせていく。
「そう。じゃあ奥さんの魅力は?」
「特にないよ」
鎖骨を通り過ぎたところで速度を落とし、もう一度唇を合わせた。
「凄く運がいい人なのね。魅力がなくてもあなたと結婚できるんだから」
沙織の首に巻きついただけの左腕にも仕事を与えようと思ったが、暫く下敷きにされていたせいか少し痺れていたので今回は見送ることにした。
「先に会ったのが沙織だったら沙織と結婚してたよ」
流れるように嘘をついた唇で肌を撫でながら右手が通った道をなぞる。
「先に会えなかった私とは結婚できないってこと?」
「そうじゃない。ちゃんと考えてるから」
目の前に現れた胸に向かって囁いたあと、弧を描きながら待機していた右手をさらに下へと向かわせた。
「前から考えてばかりね。大丈夫? 考えたまま死んじゃうんじゃない?」
「言っただろ? タイミングがあるんだよ」
一度膝の近くまで行きすぎて、戻りながら太腿の内側を撫でる。
「何て言って別れるの?」
「それもちゃんと考えてる」
ゴール付近で指先が濡れたことに一瞬昂ったものの、それが前回の……数十分前に自ら放った体液だと気付いて少しだけ肩を落とした。
「へえ……わかった。ちょっとやってみてよ」
「何を?」
中指を数回上下に動かしてみたが、自分のそれだと気付いたせいか濡れた指が気になってしまう。やはり気分の良いものではない。そう思うのはおかしな話なのかもしれないが、とにかく早々に切り上げることにした。
「練習。私を奥さんだと思って。その考え抜いた別れ話をしてみてよ」
「わかった」
体を起こして沙織の足の間に滑り込む。
「あら。抱きながら別れ話をするつもり?」
「あーそうだな。もちろん本番ではしないけど……え? 練習って今?」
「そう。今。ほら、私は今から奥さんよ?」
なんでそんな面倒なこと。もちろんその言葉を口にはできなかったし、この雰囲気で行為を続けるのは流石に気が引ける。「わかったよ」提案された茶番を早く終わらせることを選んだ。
「あー。あのー……別れよう」
「どうして?」
「どうしてって……」
妻と別れる理由。特に思いつかなかった。
「方向性の違い?」
「……バンド?」
「価値観の違い、とか?」
「今になって? 結婚何年目だと……何年目なの?」
「六年。だけど価値観なんて変わっていくもんだろ?」
ほんの二、三秒流れた静かな時間。「本当に考えてた?」と言わんばかりの表情を見て慌てて付け加える。
「あ、他に好きな人ができた、から?」
呆れた顔で「聞かれても困るんだけど」と言いながら大袈裟なため息を吐いた沙織は続けて口を開いた。
「まあいいわ。どんな人? 私よりいい人なの?」
「そりゃあ……もちろん」
どちらがいい人か。比べたことはないし比べるつもりもなかったが、現状が……妻と愛人という関係性がそのまま答えなのだと思う。
「どんなところが?」
「全部だよ」
「全部って?」
「全部。顔もスタイルも性格も」
先ほどと同じ答えだったはずなのだが、沙織は嬉しそうな表情を浮かべて口を閉じた。もう終わり。ということでいいのだろうか。
「沙織。愛してるよ」
そっと抱きしめて耳元で呟く。「私も」といういつもの答えを聞いた僕は、再びベッドに倒れた沙織の体に被さった。
*
「もう少し考えた方がいいんじゃない?」
ソファーに座って煙草に火をつけた瞬間、ベッドの方から甘ったるい声が飛んできた。
「何が?」
「別れ方。あれで納得する人なんていないと思う」
自分で止めたくせにそんなことを言われても困る。というより、あの茶番に本気で意味を求めていたのだろうか。
「そうかもね」
「あんまり待たせないでね」
そもそも妻に別れ話をする予定もないが、もし予定があったとしても……どれだけ用意をしていたとしても、きっと上手く別れ話をすることなど僕にはできない。
「ああ。わかってる」
ベッドに乗る直前までは確かに用意している、「もう終わりにしよう」という一言さえ、いつも言えずに終わるのだから。
〈了〉
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