【短編小説】鶴の一声

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鶴の一声/村田侑衣
10分で読める不思議な小説

 人通りもまばらな商店街を抜けて駅へと向かう週末の仕事終わり。一週間分の疲労を溜め込んだ自らの心に「お疲れ」と、ねぎらいの言葉を掛けて辺りを見回した僕は、初めに目に入ったバーの扉を開いた。

(これだけ懸命に働いているんだ。たまには寄り道くらいしてもいいだろう)

 誰に対するものなのかわからない言い訳を頭の中で一度唱えてから、名前も知らない店の中へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 低く落ち着いた声に指一本で返事をしてカウンター席に腰掛ける。手に取ったメニュー表にはお洒落な名前が並んでいた。散々時間をかけて悩んだ挙句「ジントニックで」と、聞き馴染みのあるカクテルを注文した自分を自嘲じちょう気味に笑い、ゆっくりと顔を上げた。
 薄暗い店内。客は僕を含めて四人だけ。マスターの手を離れたシェーカーが奏でた「コンッ」という小さな音さえ響く静けさが妙に心地良かった。

「以前、助けて頂いた鶴です」

 口に運んだグラスをコースターに置くのと同時に、細く色気のある声が聞こえてきた。二つ隣の席でカウンターに頬杖をつく女性の妖艶な瞳がこちらを覗いていることに気付く。黒のニットワンピースをまとい長い髪を揺らすその女性は、僕が視線を合わせると口角を上げた。

「ああ。あの時の」

 自分に話しかけているのだと判断した僕は彼女の冗談に乗るように返事をした。「ふふっ。そう。あの時の」と笑う姿を見て少しホッとする。

「随分独特な自己紹介ですね。せっかく人の姿に化けているのに正体をバラしちゃってよかったんですか?」

「すぐに飛び立つので。ご迷惑でしたか?」

 隣の席に座り直す彼女。ふわりと漂う甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「とんでもない。大歓迎ですよ。えっと……鶴さん?」

「サクラです。お兄さんは?」

「シンジです。あー、お互い敬語やめない?」

「そうね」と笑って鮮やかなオレンジの水を口に含む彼女。一瞬その唇に目を奪われたがあまり見すぎるのも悪いかと思い、離れた場所でグラスを拭いているマスターに目をやった。

「ねえ。とっておきの怖い話があるんだけど」

 一拍置いて「聞きたい?」と言われ、僕は「ああ。是非」と即答した。怪談が好きなわけではないが、会話を少しでも長く続けたい僕にとって聞き手に回れる状況はありがたい。

「今この店。あなたの他に何人お客さんがいる?」

「三人、だろ?」

「はずれ。よく見て」

 そう言われて再度店を見渡すが結果は変わらない。僕の席と一番離れた場所。マスターの目の前にいる親子ほど歳が離れていそうな男女しか居ない。

「一番奥のカウンター席に中年の男性。その隣に若い女性。それから君と僕。だろ?」

「ふふっ。やっぱりそう見えるんだ。まずその女性、お客さんじゃ……人間じゃないの」

「……鶴?」

「それは私でしょ? 幽霊。死んでるのよ彼女。去年の冬に」

「それは……怖いな」

 突拍子とっぴょうしもない彼女の発言に、思わず返答が棒読みになっていることは自分でも分かった。

「信じてないでしょ?」

 頬を膨らませて不満をアピールする顔はギャップを利用したテクニックなのだろうか。だとしたら効果は覿面てきめんだ。「そりゃそうだろ」と呟いた僕は、緩んだ表情を隠す為に軽く俯く。

「どうして? 見えてるのに?」

「だからだよ。こんなにはっきり見えてるし、横のおじさんと楽しそうに話してる。幽霊なわけがない」

「ふーん。幽霊は楽しく喋っちゃ駄目ってこと?」

「いや、そもそも喋れないだろ。少なくとも生きてる人とは」

「そうなのかな……まあでも、それなら信じない理由としては弱いわね」

 そう言って彼女はポケットから取り出した携帯電話を問題の女性に向けた。シャッター音の後、差し出された画面。そこにはマスターの姿だけが写っていた。

「どっちも幽霊なの。あのカップル」

「……そんなわけ」

 そんなわけない。改めて否定しようとしたその言葉をジントニックで流し込む。乾いた喉を駆けていくアルコールのせいなのだろうか。あり得ない結論を勝手に出そうとしている脳は、どこかふわふわとしていて考えが上手くまとまらない。

「……本当に幽霊なのか?」

「怖い?」

 怖いかどうかと言われれば怖くはない。あのカップルに対する恐怖心は一切ない。ただ、サクラの目が先ほどまでと違うことが気になり、なんとなくその質問には答えなかった。何かを訴えるような真剣な眼差し。そんなに信じて欲しいのだろうか。
 随分長く感じた無言の数秒間を経て、再び瞳に色気を浮かべた彼女は首を軽くかたむけながら口を開いた。

「幽霊だって信じてくれた?」

「信じられない。って言いたいところだけど、そんな写真見せられたらな」

 言葉をにごす。今後の関係。いや、厳密に言うと今晩の関係になるのかもしれないが、それを考えると「信じました」と同調することが最適な場面だとはわかっている。だが、嘘をついてはいけないという見知らぬ感情が調子の良い返事を拒んだ。

「見せられたら、どっちなの?」

「ご想像にお任せということで。今更だけど乾杯でもしようか」

 この話の終わりを告げる鐘を少々強引に鳴らそうとした僕は、手に取ったグラスを彼女の目の前で軽く揺らす。

「なにそれ。あ、せっかくだから幽霊カップルとも乾杯しとく?」

 そう言いながら彼女はグラスを鳴らした。

「やめとくよ。邪魔しちゃ悪いだろ?」

「あら、優しいのね」

「だろ?」

「ふふっ」

 柔らかな表情を作って笑った彼女は一口飲むと席を立って顔を近づけてきた。鼓動が早くなるのがはっきりとわかった。

「なんてね。全部嘘よ。写真も前に撮ったやつ。どう? 楽しかった?」

 耳元でそうささやいてから、「ちょっとお手洗い」と言って店の奥へと消えていく姿を無言で見送る。不思議な緊張感から解放された気がした。
 急に出来た一人の沈黙を持て余した僕はふと腕時計に目をやる。約一時間。楽しい時間というのは体感ではなく、本当に早く過ぎているのではないだろうか。そう思うほどに一瞬だった。このままサクラと店を出たいところだが……ひとまず二人分の会計を済ませておこうとマスターに声を掛ける。

「マスター。そろそろお会計を。あ、彼女の分も」

 一瞬、怪訝けげんな表情を浮かべた彼はすぐに「ああ。もしかしてサクラのことですか?」と笑った。

「サクラの分のお代は要りませんよ。彼女、お客様ではないので」

 マスターの言葉を聞いて首をかしげた僕は、少し考えて答えに辿り着いた。
 なるほど。

「……やられましたよ。素敵な従業員ですね」

 サクラというのは名前ではなかったのか。

   *

 店の外に出た途端、いつの間にか降り出していた雨の音が耳に飛び込んできた。傘を持っていなかった僕に「よかったら」と、ビニール傘を差し出したマスターは頭を下げた。

「またのお越しをお待ちしております」

「ありがとう。ご馳走様」

 そう告げて背を向けた僕は、そのまま夜に溶けていくつもりだった。

従業員なんです、彼女。もうこの世には居ません」

 だが、その背に彼が小さな声で投げ掛けた言葉に再度振り返る。

「え……?」

「時々こうして遊びに来るらしいんです」

「……でも」

 確かに彼女は居た——。口には出来なかった。
 誰も居なかった、何も見えていないと言われるのが怖かった。幽霊と話なんて出来ないと否定されたくなかった……僕がそうしたように。
 誰もが納得出来る存在証明。先ほどまであれだけ聞こえていた鶴の一声は、もう聞こえてこない。

   〈了〉

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