【短編小説】パレイド・リア・パラノイア

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パレイド・リア・パラノイア/村田侑衣
10分で読める不思議な小説

 壁に向かって「おはよう」とささやくが、アミと名付けた台形のシミはもちろん返事をしない。

 フローリングの床に転がった自らの体をゆっくりと起こす。正午過ぎ。時計代わりの携帯電話をポケットに戻し、眠い目をこすりながら壁際かべぎわの小さな机の前に腰掛けた。電源の入っていないパソコンを横目に飲みかけのペットボトルを口へ運ぶ。喉を通る生温なまぬるい水が汗ばんだ体に行き渡る感覚は酷く不快だった。
 先月引っ越してきたばかりのこの部屋にはエアコンがない。正確に言うと仕事用に用意したこの机とパソコン以外は何もない。

「また……か」

 トイレに行こうと重い腰を上げた瞬間にいつもの視線を感じた俺は、再び座って大きくため息を吐いた。どこからの視線かはわかっている。ここに座った時、丁度ちょうど真後ろに位置する木枠に囲まれたはめ殺しの窓。そこから見られている。
 初日、この部屋に入ってすぐのことだった。少ない荷物を一通り広げ終わって立ち上がった俺の視界に人影が映った。窓から中年の男性がこちらを覗き込んでいる。それに気付いた俺は、慌ててパソコンを包んでいた新聞紙を窓に貼り付けて塞いだ。
 せめて二階の部屋にすれば良かったと後悔した。ネットの賃貸情報を見て内見ないけんもせずに入居を決めたこのアパート。知らない土地で家賃が安ければどんな部屋でも良いと考えていたのだが、それが間違いだったのかもしれない。

 当初から次の仕事が決まるまでの一時的な住まいのつもりだった。金銭的な余裕があるわけではないが、心機一転しんきいってん。全てを捨てて新たな土地でスタートしようと考え、長年暮らした地元を飛び出してきた。人間関係のトラブルで仕事を辞めることになったのだが、良いきっかけだったと思っている。
 大学を卒業して地元の小さなIT企業へ就職した俺。初めの一、二年こそ必死で勉強していたが、ある日気が付いた。いくらプログラム言語を覚えても業務で使わなければ宝の持ち腐れだ、と。
 ここに居る限り自らのスキルを使う機会は訪れない。同じ顧客こきゃくに捕えられ、同じような古臭いシステムの改修を繰り返し、いいように使われ続けて年を取っていく。待遇たいぐうの面でもそうだ。微増びぞうする単価が給料にそのまま反映されるわけでもないのに、年々作業も責任も増えていく。
 割に合わない。それなら流行りのフリーランスとしてやっていった方がいい。自信もあるし、その方が実力を発揮出来る。いつからか、そう考えるようになっていた。

「腹減ったな」

 返事がないことがわかっていながら斜め前に居るアミに向かってつぶやく。人の輪郭に見えるこのシミに彼女の名前を付けたのも初日のことだ。これを見てすぐに名前が浮かんだのは、何も告げずに出て来たことに負い目を感じていたからなのかもしれない。

 アミと出会ったのは去年の忘年会の後だった。一人で繫華街はんかがいを歩いていた俺は、見事にキャッチに捕まり知らないラウンジに連れて行かれた。そこにアミが居た。

「いらっしゃいませ。はじめまして……ですよね?」

 一目惚れだった。それから数回通ううちに、アミの方にも気があることがわかり付き合うことになった。もちろん今でも心の底から愛している。だが、一人でやっていくことのリスクを考えると背負うものは少ない方がいい。そう考えて何も告げないまま一方的に別れを決めた。

「これで良かったんだよな」

 アミに笑いかけたのとほぼ同時に、机の上の携帯電話がメールの受信を知らせる為に体を震わせた。タイミング的にアミからか、と思ったがすぐに自ら否定する。……メールでやり取りをしたことなどない。そもそもお互い頻繁ひんぱんに連絡を取るタイプではなかった。店が暇な時か俺が店を訪れる時に電話をかける。それだけ。それでも愛しあっていたのだから、マメな男がモテるというのはおそらく妄言もうげんだ。

 画面に映る『選考結果のご連絡』という件名のメールを開く。

『松下様 拝啓 ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。さて、この度は——』

 不採用を告げるメールに目を通した俺は、立ち上がって大きく伸びをした。どうせ繋ぎで応募した会社だ。俺を落とすのだから大した会社ではないのだろう。受かっていなくて良かったのかもしれない。
 それに折角せっかく手に入れた自由だ。もう少しくらい休んでもいいだろう。不思議な高揚感こうようかんに包まれた俺は、今も視線を感じる窓の前へと向かい声を掛けた。こちらが迷惑をこうむっているのだ。少しくらい馬鹿にしたっていいだろう。そんな気分だった。

「なあ、おっさん。一体何がしたいんだよ」

 返事はない。居ると思ったのだが気のせいだろうか。新聞紙を思い切りがすと、そこにはやはり男性が立っていた。

「どうせ何も考えてないし何も出来ないんだろ?」

 もう一度話しかけるがやはり返事はない。口をパクパクと動かすだけで言葉を発さないその男性が不気味に、そして滑稽こっけいに見えた。
 視線を落とし、ポケットの中から取り出した煙草に火を付ける。再度顔を上げると男性も同じように煙草を持っていた。「煙草を買う金があるなら少しは身だしなみに気を配ったらどうだ」と言いかけて止める。こんな奴に言ったところでどうせ意味なんてない。

 みじめだな。

 それも口にはせずに鼻で笑い、穴の開いたシャツを目掛けて思い切り煙を吐き出した。

   〈了〉

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