ジョハリの窓/村田侑衣
3分で読める不思議な恋愛小説
婚約したばかりの彼女が田の字に裂けて四人になった。
一瞬の出来事だった。へそに入った裂け目は勢いよく四方に広がり、それまで眺めていた寝顔も綺麗に半分になった。考える時間もないほどの速さで。悲鳴をあげることも出来ないほどの速さで裂けた彼女。断面を見て思わず目を瞑った僕が次に見たのは、膝の高さに並んだ四つの頭頂部だった。
「おはよう」
暫く続いていた静寂を破ったその声は間違いなく彼女の声だった。ゆっくり視線を落とす。顔を上げていた一番左の彼女に向かって「お、おはよう」とぎこちない返事をして、僕はその場に腰を下ろした。
彼女たちの顔をじっくり眺めてみたが、何度見ても全員彼女だった。小さくなっただけの彼女。肩にかかる綺麗な黒い髪も、柔らかい二重の目も全く同じ。耳の横にある黒子も同じ大きさに見えた。
「そんなに見なくても……」
照れてしまったのだろうか。一番左の彼女がそう呟いて顔をそらした。少し赤く見える頬に「ごめん」と言って、僕も同じように視線を外す。
「あの……さ。わかるなら教えて欲しいんだけど……これ、どういう状況?」
「私にもわからない」
次にかける言葉が出てこなかったので、ひとまず「そっか」と答えておいた。
再び訪れた静寂。どこか心地の良い静けさ。それは、自他共に認める寡黙な彼女と過ごしてきた二か月の間に度々訪れていた時間と同じものだった。
「なんだか不思議な気分。うずうず? そわそわ? 上手く表現できないけど」
左から二番目の彼女が口を開いた。「どういうこと?」と聞き返すと、彼女は真っすぐに僕の目を見て言った。
「大好き」
無意識に出た「え?」という声が裏返る。その様子を見て優しく微笑んだ彼女は、「大好きだよ」と言って僕の左手を握った。
「最初はね。お父さんに写真を渡された時は、怖そうな人だなって思った」
「……悪かったな。目つきだけだろ?」
空いている方の手で口元を隠しながら笑う彼女は話を続ける。
「親同士が知り合いだからって何でお見合いをしないといけないんだろうって」
今まで、彼女が自分から話をし続けたことはほとんどなかった。
「でも、お見合いの時。会った瞬間に思ったの」
僕に対して自分の思いや考えを積極的に言ってきたこともない。
「私はこの人と結婚するんだ、って。一目惚れってこういうことなんだって」
だから、素直に嬉しかった。
「……急に饒舌になったな」
「自分でもびっくりしてる。あ、嫌だった? 迷惑?」
心配そうに僕を見つめる彼女。「いや、嬉しいよ」と答えると「よかった」と言って満面の笑みを浮かべた。
「……それでも少し不安だったの。上手くやっていけるのかなって」
最初から顔を曇らせたままだった右から二番目の彼女がそっと呟いた。
「不安? 結婚が?」
「そう。ほら、今まで会話もあまりしてこなかったし」
そんな風には見えなかった。そんな素振りも……押し殺していたのだろうか。
「言ってくれれば……いや。僕が気が付くべきだった。ごめん」
「ううん。もう大丈夫。これからはちゃんと自分の気持ちを伝えるようにする」
右から二番目の彼女はそう言って恥ずかしそうに笑った。その直後だった。一番右の彼女が笑顔で。今まで見たことのない幸せそうな表情で言った。
「一緒に幸せになろうね」
——ああ、そうか。彼女は気が付いていないんだ。
「……君は昨日の夜、事故で……君はもう、死んでるんだ」
その瞬間、目の前の彼女たちは消えた。
元の大きさに戻った彼女は、先ほどまでと同じように柩の中で眠っていた。「ごめんね」どこからか聞こえた気がした彼女の声に、後悔の念が押し寄せる。
「大丈夫。ちゃんと伝わったから」
僕が知りたかった彼女の気持ちは知ることが出来た。だが、知って欲しかったことはまだ——。思い出したように溢れ始めた涙を拭いながら、おそらく届くことのない思いを口にする。
「愛してた……愛してるよ」
冷たい静寂が辺りを包む。
もう一度裂けて欲しい。そう願いながら、綺麗なままの寝顔を眺め続けた。
〈了〉
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